じつはたくさんのことを知っている
こんにちは、福田です。
私は、毎週木曜日にこちらを更新しておりますが、書く時間もだいたい決まっています。
というのも、木曜日は夕方時間にかけて「学研教室」を担当しています。
ちなみに、あすなろ学院では、名取教室、そして富谷大清水教室、多賀城駅前教室、小松島教室で学研教室も同時開講しています。
そして私は、学研教室を終えて、夕方から夜時間の生徒さんの授業の間で、こちらを書いていることが多いです。
ということでというのもなんですが、今日の学研教室での一コマ。
学研教室には、小学校に上がる前の幼稚園の生徒さんもいらっしゃいます。
今日やったもののなかに、「同じ音のものを選ぶ」といったものがありました。
例えば「はな」と書いてあって、「花」のイラストが隣にあったとします。
ここで問題、いくつかのイラストがあって「同じように『 はな』 となるのはどれでしょう」といった感じです。
例えばそこには、「目」とか「口」などのイラストとともに「鼻」もあったりします。
これが「たこ(海の生き物とか凧とか)」とか色々なパターンで出てくると、幼稚園の生徒さんにとっては、「??」となるものも出てきます。
ただ、私たち大人は当然知っています。
「当然」と書きましたが、これは実はすごいこと。
私たちは、いつのまにかものすごくたくさんのことを知っています。
ただ、「これらをいつ覚えたのか」と言われると、少なくとも私は、覚えていません。
「いつ覚えたかは分からないのに知っている」ということの中には、自然と日常生活の中で覚えていったものと同じくらいに「意識して学んだもの」も含まれているはずです。
例えばですが、「小5・小6の生徒が知っていること」と「中1の生徒が知っていること」の間には、ほとんどの場合、何かしらの差はあるはず。
そしてそれは、単に「生きてきた時間の長さの違い」だけではないな…というのは、感覚的にもわかるはず。
「学び」というのは、少しずつかもしれませんが、違いをもたらす、内面を豊かにしてくれるものではないかと思います。
ときには「こんなこと、何の役にたつのだろう」とか思うこともあるかもしれませんが、ちょっとだけ踏みとどまって「まあ、少しだけやってみようか」とすることで、思わぬ展開が待っているかもしれません。
それでは、今日はこのあたりで。